【講評】『八幡で何を見たか』管啓次郎|SUGA Keijiro

『八幡で何を見たか』

管啓次郎|SUGA Keijiro

神社の最初の鳥居を抜けるとぽっかりと開けた場所に出た。台風一過の秋に夏が戻ってきたような燃える空の下、地面も白く燃えていた。砂地にばらまかれたのはコンクリートの破片群。しかしひとつひとつが立っている。うなった、大袈裟ではなく。からっぽな場所に、ふるえるように、すべてが立っている。鉄筋やタイルの混じった巨大な破片、中くらいの破片、ごく小さな破片。すべて整列し立っている。歌いだしそうな動きを閉じこめて。島袋道浩の作品だった。

島袋道浩《再生》2021、八幡市、石清水八幡宮頓宮殿

立つ、立てる。その行為は重力に対する反抗であり、重力との対話だ。ぼくが思い出したのはマウイ島の海辺の墓地。砂糖黍産業の終わりとともに日系移民の子孫たちは都会に移住し、墓は砂に埋もれた。さすがにそれではと思った人々が砂から掘り出しただけの姿で、いまの墓地はある。荒れ果てているが、この上なく明るく清浄だ。摩滅して文字が読めない墓標と、ある時点で作られたセメントに釘で「無名氏」とのみ記した異様な墓標が混在していた。そこにむしろ弔いの本質を見た。島袋の作品が追悼しようとしている何かも、ある時期に土地を通り過ぎていったモノたちの魂の塊なのではないか。大きくても、小さくても、立てられた石たちはその場を空とつないでいる。

島袋道浩《再生》2021、八幡市、石清水八幡宮頓宮殿

広場をとりかこむ回廊に、石川竜一の写真が展示されていた。主題は雑草と落書。じつにいい。雑草はすきまに生えてくる。止めようがない。人工物が地表を支配しようとしても、それを超えて噴き出してくる。派手さは何もない。だがニンゲンたちの認識の外で、雑草はすべての場所が潜在的には原野であることを教える。同時に、みずからを原野から断ち切ったヒトという種のあわれなさびしさを。人間が指定した場所の区分、名付けた植物名の分類を超えて、<雑草>はどんどん生えてくる。風にふるえている。印象深かったのは、いつも動いている雑草が止まるのを、風が止まるのを、石川がひたすら待って撮影するということだ。肖像写真のように。写真家は雑草の顔が現れるのを待つ。

石川竜一《 Hōjōナウ!! – 草 と落書き – 》2021、八幡市、石清水八幡宮頓宮殿

それぞれの雑草写真がすばらしいが、石川はためらいなくそこに落書を重ねる。文字、線。意味も無意味もなく。その場の落書を写し、新たに線を刻む。落書もまた管理を拒絶する。メッセージの有用性とは無縁に、落穂とおなじく誰かに拾われるのを待っている。拾われることで移動し、伝播する。場所も時間も離れた誰かに、いきなり呼びかけ、行動に駆り立てる。落書の命は、雑草が生きてゆく戦略に非常に似ている。

石川竜一《 Hōjōナウ!! – 草 と落書き – 》2021、八幡市、石清水八幡宮頓宮殿

移動した。松花堂庭園の前庭に置かれていたのが石川のもうひとつの作品だった。四角くつぶされた廃車。中に団地の一部屋分の家具家電を含めた生活用品が詰められたままつぶされ、その部屋の住人=車の持ち主の、生活の物質的記録となっている。これもまたまるごと雑草であり落書だ。個々のアイテムを構成する物質の来歴をたずねるなら、ここには世界が凝縮されている。とりわけ印象深かったのはスクラップ化する工程を実際に担当した嵓さんの言葉、「物に成仏させてあげたい」だった。人の思いは誰もが語る。しかし、物の思いは? その声なき声を誰かが聞き取らないかぎり、ニンゲンの心が世界を蹂躙するという現況は変わらない。生物非生物を問わず、物質が、われわれを考え、生かしてくれるのだ。

石川竜一《 Hōjōナウ!! – C9-403 – 》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館

佐々木香輔が作ったのはカメラ・オプスクラを使ったきわめて洗練された作品。薄暗い茶室の壁を金魚が泳いでいる。よく見ると、金魚たちは逆さ。室外に置かれた水槽の魚がそのまま投射されているのだ。写真作品も、おなじ仕掛けを使い、倒立像が写りこんだ状態の場所を撮影している。どれも非常にいい。日本在住のアジア出身の人々が含まれた生活の場だそうだ。被写体となった人々に対する説明はここにはないが、欲しいと思った。かれらはどこから来て何をしているのか。どう暮らし何を考えているのか。そんな言葉を聞いてみたい。

佐々木香輔《scape》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館(庭園内)


佐々木香輔《scape》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館(庭園内)

藤生恭平の作品はサッカー少年の野生化の記録。三川が合流する水にむかってシュートを決めるために、密林を抜けどこまでも進む。競技として確立されたサッカーが均質な世界規準のコートで展開するのに対し、藤生の孤独な戦いはサッカーそのものを地理学的に解放している。爽快な着想だ。

藤生恭平《三川合流シュート》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館(庭園内)


藤生恭平《三川合流シュート》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館(庭園内)

宮本一行のおかげで、訪れることのできなかった橋を体験することができた。木津川にかかる「流れ橋」を楽器として再発見し、橋という実用的施設が環境に住みこみ、人を生かしつつみずからいかに時をわたってゆくかを、見事に造形した。理想的な場所を得た、寡黙で考え抜かれたインスタレーションだ。この作品から遠くない所にある現実の橋に呼びかけながら、部屋を体験する者を外へと誘ってゆく。

宮本一行《共振する躯体》2021、八幡市、松花堂庭園・美術館(庭園内)

展示全体の題名は「放生/往還」。土地の生命をつねにまるごと捉えようとするのが生態学的思考だとしたら、この題名はそれ自体がエコ批評だ。5人の作家の心意気が、その企図によく応えている。
 
 
管啓次郎|SUGA Keijiro
詩人・比較文学者。明治大学理工学部教授(批評理論研究室)。同大学院理工学研究科総合芸術系PAC(場所、芸術、意識)プログラム教授。主な著書に『斜線の旅』(インスクリプト・2009年)、『本は読めないものだから心配するな』(左右社・2009年)、『ホノルル,ブラジル』(インスクリプト・2006年)、『オムニフォン <世界の響き>の詩学』(岩波書店・2005年)、『コヨーテ読書 翻訳・放浪・批評』(青土社・2003年)、小池桂一との共著『野生哲学』(講談社現代新書・2011年)などがある。